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「文字なき世の心に耳を澄ます」

 私たちは、あまりにも多くの文字に囲まれて生きています。

新聞、書物、ニュース、そして途方もない速度で流れ続ける情報。

便利で安心な世界――けれども、その安心は、ほんとうに私たちの心を育てているのでしょうか。

 本居宣長は言いました。「文字のなかった時代にも、文字なき世の心があった」と。
 文字がなければ人は不便であったに違いない、そう私たちは思い込みます。

けれども、宣長は逆を語るのです。文字がない時代の人々は、すべてを心に刻み、記憶を力として生きていた、と。

 考えてみれば、私たちはあまりに文字に頼りすぎてはいないでしょうか。

覚える代わりに書き留め、感じる代わりに調べ、考える代わりに検索する。

けれども、それは心を怠けさせているのかもしれません。精神とは、過去を呼び覚ます力であり、自らの記憶を働かせることです。

知識を集めるだけでは、知恵にはならないのです。

 小林秀雄は、そんな宣長の言葉を継いで、「人間を自分にわかりやすいように観察してはいけない」と語りました。
 私たちはつい、人を分析し、分類し、理解した気になります。けれども人間は、そんなに単純なものではありません。

誰もが一人ひとりにしかない顔を持ち、その難しさのままに生きている。

理解しやすい言葉に押し込めてしまえば、その奥に燃えている炎を見失ってしまうのです。

 ソクラテスもまた、同じことを言っていました。

雄弁術による説得ではなく、心を割った対話こそが真実に近づく道であると。たとえ相手がいなくても、己の心と対話すればよい。

自らに問うこと、それが精神を生かす最も確かな方法なのです。

 けれども現代の私たちはどうでしょう。教育は「答え」を当てることを求め、日常は「わかりやすさ」に溢れている。

自らに問いかけ、悩み続けることは軽んじられています。

けれども、人間の心がほんとうに働くのは、答えを探す時ではなく、問いに向き合う時なのです。

 知識は外から与えられます。しかし知恵は、心が自ら働き出すときにしか生まれません。

小林は「自分の文章は歌のつもりで書いている」と語りました。

それは知識を伝えるためではなく、自分という人間の響きを残すため。

歌のように、響きと余韻の中でこそ、生きた心は伝わるのです。

 今、文字に頼りすぎた私たちは、便利さの影で大切なものを見失いつつあります。

人を切り刻まず、そのまま受けとめること。

歴史や神話を寓話とせず、真剣な思想として聴き取ること。

知識に溺れるのではなく、精神の力を目覚めさせること。

 それが「もののあはれ」を思い出すということではないでしょうか。
 過去を呼び覚まし、今を生きる心の力。
 そして、自分自身を問い続けること。

 どうか、耳を澄ませてみてください。
 文字に頼らずとも、あなたの心の奥には必ず、静かに響いている声があります。

この記事を書いた人

あぐり

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